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春望の続きです。
拍手ありがとうございます。
では下からどうぞ。
数日後、新たに作った膏薬と飲み薬を里まで届けに下りた。
滅多に里に下りてこないファイの姿を珍しそうに見る者もいるが、既に日も沈みかけた時刻だ。あともう一息といった畑作業や、家路について夕飯をとることの方が優先される。煩わしく詮索好きに話しかけてくる者はいない。
目当ての家の場所だけを尋ねてゆっくりと新芽の出始めた畑の脇を歩いていく。
城仕えになった兄からの仕送りで家の手直しをした、と子どもが得意そうに言っていたとおり、まだ人の手が入って新しい屋根と壁の家だったのですぐに分かった。
鬢に白いものが混じった母親に頼まれた薬を手渡すとこちらが恐縮するくらい何度も何度も頭を下げながら見送られた。
城に医師や薬師がいないわけではない。医療班などむしろ備えは整っているくらいなのだが、ある程度手を尽くすと予後はさすがにそれぞれの自宅での養生以外に手の施しようがない。
深手を負った若い忍はまだ独り身だということもあり、同じような境遇の宿舎ではあまり存分に看ることがかなわないため親元への一時的な帰宅が認められたらしい。
自分自身が傷を負うことの多い忍軍の一員で治療の心得はあっても、本来の勤めは城の警護や襲撃に備えることである。負傷者の看病全般までは手が回りかねるようだった。
命に別状が無い程度に傷は塞がっているものの、農作業を主たる生業とする家族だけでは十分な薬が準備できない。なまじ藪医者に引っかかるよりは山に住み着いたファイの方が確かな薬を処方する、と頼み込んだのだ。
数日おきに遊びに来る子どもに薬を持たせて帰らせていたが、ひと月ほどすると復調した本人がファイの住む小屋まで礼を言いに訪れた。
頭を下げながらも不審げにちらちらと様子を窺う様を素知らぬふりをする。
見知らぬ人間相手に警戒するのは忍としてのさがだろうが、それを隠しきれてはいない。あからさまに警戒していると分からせるのは、時として相手に対しての牽制ともなるのだが、生憎と経験が浅い忍にはそこまで考えが至らないようだった。
内心の可笑しさを噛み殺しながらファイはにこにこといつもどおり子どもたちと遊んでいた。
白鷺城で姫巫女から忍軍、兵軍へと内密に国内での異変を探るように、と命が下ってから依然として目ぼしい成果は上がらない。
予期せぬ魔物の発生を人家の無い地域で発見出来たり、未然に叛乱を抑えることが出来たりはしたがそれも常日頃からの任務の成果の域を出ないものだった。
あと出来ることは精々不審な人間をいつも以上に徹底的に洗いだすだけだ。
とは言っても帝の住む都は出稼ぎの人間も多い。膨大な数にのぼる出稼ぎ労働者一人一人の出身や素性を調べるのはとかく骨が折れる。怪しい人物だけ選り抜いてもそれは大変な作業で、よほどのことが無い限り得てしてそんな仕事は組織の中でも下っ端に割り振られるものだった。
帝の直轄地の山にはぐれ者が一人住み着いた、というと多少怪しげだが、悪さをするわけでもなく土地の者の評判も良いらしい。むしろ親の仕事の間に子どもらの相手をしてやって、いい子守代わりだとの噂だ。
最初の頃は多少何者だという話は持ち上がったが、問題がない以上その人物についてこれ以上詮索するつもりはないということで話は一端落ち着いていた。
しかし、一介の流浪人というだけでは納得できない薬学や知識の造詣の深さが噂として忍軍に届くと、一度徹底的にその不審な人間を調べなおさなければ、という流れになる。
その山近くに両親と幼い弟妹が暮らしている若い忍が呼び出されたのは当然のことだったろう。
任務中の怪我から復帰したばかりのその若い忍は養生する間に件の人物とも実際に会ったことがあるという。事情を聞くには適任だった。
「面倒くせえ」
そうぼやく黒鋼を苦笑しながら蘇摩がたしなめる。
元来戦闘のために存在するような男で、こういったこまごまとした裏づけ作業が得意ではないことは知っている。けれどもこれも務めのうちなのだ。
蘇摩がたしなめるのも尤もなことなので、黒鋼も退屈そうに溜息をつくばかりでそれ以上文句は口にしない。
敵だとみれば、ただ殺す。そのように生きていたかつての男の姿からすれば随分丸くなったものだと感心することしきりだ。
黒鋼も自分を幼い頃から知っている者にはそう乱暴にも出られないのだろう。蘇摩の視線に居心地悪げにしながらさっさとめんどくさい仕事を終わらせたいと、件の忍を呼びつけた。
程なく年若い忍が恐縮しきった様子であらわれる。そのまま下座で頭を下げようとしたのを黒鋼が「こんな時にいちいちかしこまるな」と投げやりに止めた。
若い忍にとっては黒鋼も蘇摩も普段は直接口を聞くこともないほど上の人間だ。おまけに黒鋼は以前の暴虐ぶりが半ば伝説と化してしまっている。かえって若者は緊張で肩を強張らせ、まともに話を聞くのに少しばかり骨が折れることになった。
都の周辺に浮浪者が住み着くのは何も珍しい話ではない。
ただ、その多くは故郷を追われた脛に傷を持つ身か働き口を無くした物乞いだ。黒鋼のように魔物の襲撃で故郷をそのまま失うのは珍しい。魔物の襲撃の被害も白鷺城は、出来るだけ残された民が路頭に迷わぬように配慮を怠らない。忍や兵、あるいは医療部隊の中にもそうして拾われた者は多い。
だからこそ、いっそまったく目的の知れないはぐれ者、というのは気味が悪かった。
犯罪者が身を隠す目的であればもっと人の多い街中の方が都合が良いはずである。白鷺城に仇をなす敵の斥候かとも考えた。だが、そのような人間がふらふらと無防備に里の人間と関わるのも妙な話だ。
どうも名のある知識人の弟子でもあるのか、というほどに学問にも医療にも精通している。
かといってそれを商売にするわけでもなく、里の人間にも薬を処方したり、子どもの遊びの延長で手習いの面倒をみたりもしているらしい。
聞けば聞くほど、まるで昔話の中の気まぐれな仙人のような人間だ。
訥々と話す若い忍の話に黒鋼も蘇摩も奇妙な表情を隠せない。
「怪しいっちゃあ怪しいが…」
「一度誰か差し向けて様子を見ましょう。ただの風変わりな者ならばそれでよし、そうでなければ一度正式に忍軍として詮議すればよろしい」
その者の名前は、と尋ねた蘇摩に少し場の空気に慣れてきた忍がしばし考え込む。弟妹から聞かされていたのだが、その人物への不審の方が先行していて話半分で聞き流していたらしい。おろおろと記憶を探る忍に黒鋼がいい加減痺れを切らしかけた時だった。
「たしか藍、…違う、紫紺。でもそんな名前だったかと…。蒼い瞳だから…」
『蒼い瞳』
そう耳にした黒鋼の表情が固まったのに若い忍は気がつかない。
「…!そうだ、『露草』、と呼ばれていました。誰も本名を知らないとかで、蒼い瞳だから露草」
蘇摩がはっと黒鋼の顔を見る。黒鋼は一切の感情を押し殺した顔で短く尋ねた。
「…そいつの髪の色は」
「髪ですか?黒髪でした」
そうか、と呟く黒鋼の顔にやはり表情はない。
「もう行っていいぞ、何かあればまた呼ぶ」
これ以上聞くことはない、と退出を促すのに忍はあからさまにほっとした表情を浮かべてそそくさと頭を下げて出て行った。
よほど緊張していたのか、普段よりも大きな足音が遠ざかる。
蘇摩は気遣わしげに黒鋼を視線を投げかけるが、かけるべき言葉が出てこない。
黒鋼の唇には淡く苦い笑みが浮かんでいた。