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次で大台ですね。予想以上に長くなった気が…。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
もうちょっと続きます。
拍手ありがとうございます。
では下からどうぞ。
ゆっくりとだが、確実に意識が覚醒した。
今この場に彼女と自分以外の存在の無いことに安堵する。その一方で後悔にも似た苦さが湧き上がるのを堪えられない。
ファイの顔をまっすぐに見つめる女の顔には何の色もない。
飾り気なく慎ましやかなその女の顔をファイは良く知っていた。幾度も、黒鋼の家で見た顔だった。
彼の、妻。そう聞いた。
幼い息子と手を繋ぐ姿も、主の帰りを待ちながら庭掃除をする姿も、知っている。
激しい雨の日に、倒れた彼女を治療したのは自分だ。
あの時、青白くやつれていた面差しは今は少しだけ血色が良いように見えた。
もう一度、彼女が何故ここに、と思う。
城仕えの忍者である黒鋼がいるのは別段おかしなことではないが、その家人がわざわざ城まで出向く意味がファイには分からない。
そうと明言されたわけではないが、この場所が月読の君による結界に守られた場所であることがファイには易々と分かる。そうであれば当然この場所が白鷺城の中だと結論づけるのは難しいことではない。
城の主の身を守る忍が城内にいるのは当然だが、その妻女が自由に出入り出来る筈はないのだ。あるとすればよほど高位の貴族か重臣の身内、あるいは忍と同じように城に仕えている女官だろうか。
戸惑うようなファイの表情に、女性も困ったように微笑んで「何からお話すればよいのか…」と言葉を濁した。
「はあ」
ファイも我ながら間抜けだと思いながら、曖昧な返事しか返しようがない。彼女の思惑も真意も分らぬのだから仕方がないのだが。
そういえばこの人の子どもを泣かせかけてしまったな、とぼんやりと思い出す。完全に泣かせてしまったわけではないが、それでも母親には謝っておいた方がいいだろう、と思った矢先、ファイの目の前で女が床に手をついて深く頭を下げた。
「此度は私どものせいで旦那様と貴方様にご迷惑をおかけいたしました。まことに申し訳ございません」
「え…」
旦那様、というのが黒鋼だということは分かる。けれど、ファイにはこの女性に頭を下げられる道理がない。
何を謝ることがあるのだと軽い混乱に二の句がつげない。
膝をつき、頭を下げた女性の表情が見えないので、彼女がどんなつもりでこのようなことをしているのかが分らない。
困惑するファイの前で、女はゆっくりと背を起こした。
「私がお話させていただく前に、少しだけお尋ねしたいことがございます」
「…」
「旦那様の待ち人は、貴方様なのですね」
あの雨の晩の問いと同じだった。
黒鋼が自分のことを待っているなど、そんなことなど、あるはずがないと。そう思って。夢だと誤魔化して逃げた問いだった。
待っているはずなど、ないのだ。彼には既に帰る家があり、迎える家族がある。
ファイを待っている理由がない。
けれど。
待っていて欲しい、と願わないわけではなかった。
本当はいつだっていつだって、黒鋼の元へ帰りたかった。
待っていてくれる人がいるのならば、そこへ帰っていきたかった。
「分りません…約束なんてしてないから。…一方的に『待っていてほしい』なんて…言えるわけがない」
きっとどう誤魔化しても、この女性は騙されてくれない。黒鋼と一緒にいる人だ。嘘が通じるとも思えない。だからファイは本心を答えた。
不快に思ったかもしれない。それでも、これがファイの偽りのない本音だった。
ファイを真っ直ぐに見つめていた女性の瞳から力が抜け、薄く開いた唇からほうっと息が零れた。
「いいえ…旦那様はずっとお待ちでした。ずっと、貴方様のことを待ってらっしゃいました」
嘘でも嬉しい、そう思う気持ちと、まさか、という気持ちが瞬時にファイの中でせめぎ合う。
ファイの顔をひたと見据え、女性は重ねて問うた。
「私のことをどのようにお聞き及びですか?」
「黒鋼の…」
ただの言葉だ。それなのに、言葉にするのがこんなにも辛いなんて思いもしなかった。
振り絞るような声音でファイは言う。
「黒鋼の、…奥方だと」
ファイの声に、女性はああ、と得心したように小さく頷くとゆっくりと首を横に振った。
「違うのです。…私は旦那様の妻などではございません」