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春望の続きです。
拍手ありがとうございます。
では下からどうぞ。
らしくもなく物思いにふけって、家に帰りつくのが随分と遅くなってしまった。既に道には行き交う人の姿もない。
どうにも我が家ながら帰るのに気が重くなってしまうのは、黒鋼が昼間に城であんな話を聞いたせいだろうか。
都の近くの山中に、怪しい男が住んでいる。
蒼い瞳だという。
違うと分かっているのに、もしかしたら、とそんな思いが消えてくれない。
重い足を引きずって、だがそれでも歩みを進めていればいつかは目的地までたどりついてしまうのだ。
昼間に雑用をいいつけてある男は通いであるためとっくに自分の家に帰っている。黒鋼の帰りを待つのは二人だ。
がらりと玄関を開けると奥から子どもがぱたぱたと走ってきた。
「お帰りなさい、おとうさん」
「おう」
くしゃりと柔らかな髪をなでると嬉しそうにふふ、と頬をゆるませて黒鋼の足元にまとわりつく。
奥から子どもの母親も出てきた。
「おかえりなさいませ、旦那様。すぐに夕餉にされますか」
「そうしてくれ」
すぐに黒鋼の足元にくっついている子どもに気がつき、「これ」と軽く叱りつける。母親の叱責に慌てて子どもが黒鋼から離れてばつの悪そうな顔をした。
「お疲れなのにいけませんよ」
母親の小言に首を竦めて、子どもはごめんなさい、と項垂れた。大人しく黒鋼から離れると母親の言いつけに従って黒鋼の膳の準備を手伝い始める。
それを軽い苦笑で見送りながら、黒鋼は部屋着に着替えるため私室の襖を開けた。
主が不在であっても手入れの行き届いた部屋は綺麗に片付けられている。
床の間に一枝、花が挿してある。元々物が少ないので片付けは簡単だろうが、細やかな気遣いは女のものだった。
花の名は分からない。白く小さな花弁が集まって雪が積もったようにも見えた。
雪は、どうしてもただ一人を思い起させる。
丁寧に畳まれた部屋着を手に取り袖を通す。部屋を出る間際誰かに呼ばれたような気がして、思わず黒鋼は振り返った。
勿論、誰もいない。
それでも人待ち顔の白い花に後ろ髪を引かれて仕様が無かった。
最近山中が妙に騒々しい。
人の足音が遠ざかり、気配が完全に山を降りてしまうのをまってからファイは隠形の術を解いた。
大方は白鷺城の忍なのだろうが、中にはあからさまに怪しげな人物もいるのでファイも彼らの前に姿を現さないようにしている。
白鷺城に自分の存在を知られれば当然黒鋼の耳にも入ることもあるだろうし、それは今のファイには望むところではない。
それ以外の人間はというと、おそらくはどこからかファイの噂を聞きつけて利用としようという輩だろう。長く旅をしていると時々こんな事態になったりもする。
外界から来た知識人を自国の発展のために留めおこうとしたり、自らの権威や利益のために傍に置きたがったり、と理由は様々だ。手段も平和的に話し合いでの交渉の時もあれば、恫喝や力づくで攫おうとしたり非合法な手段を講じてくることも多い。大抵後者の場合は後ろ暗いところのある相手なのでそれなりに応戦させてもらうのだが。
ただ通りすぎていくだけの国ならばとっくに旅立っている。
そう出来ないのは、しないのはファイの気持ちの理由だけだ。自らの弱さだと分かっている。けれど、この国を離れて行くあてが他にあるかと問われれば無いも同然だ。
一番辛く、苦しいこの国が、一番愛しい。
それでもいつかはこの思いも、この暮らしも、断ち切らなければいけないことは分かっていた。
両手で顔を覆って小さく息をつく。
「もう、潮時かなあ」
黒鋼の姿を追いかけることさえなければ、ここでの生活はそれなりに悪いものではない。懐く子どもたちは可愛いし、余所者のファイを里人は踏み込みすぎない距離で受け入れてくれている。
黒鋼のことさえなければ、ここで医師の真似事をして暮らしていくのも良かった。けれどそれは無理な話だ。
この国に住み続けることも、ファイが生き続けていることも、全て一人の男のあるがゆえなのだから。
いつか、黒鋼が彼の選んだ家族と笑う姿を見ても心が痛まなくなったら、そうしたらこの国を喜んで離れられるだろう。あるいは逆にこの国に住まうかもしれない。
けれど今は駄目だ。思い切ることも、手放すことも今のファイには出来ない。
幾度も黒鋼の住まいを覗いた。
舌足らずな口調の小さな男の子の姿を思い返す。優しい微笑みでそれを見つめる母親の姿。
それを壊してまで己の恋情を貫き通す気持ちはファイにはない。
その程度の気持ち、などではない。
大切で、自分にも持余すほどに大切で。
だからこそ彼の幸せを手放しで喜べない自分が呪わしい。万が一、自分を選んでくれはしないかと頭を過ぎる甘い考えが憎かった。
こんな愚かな自分など。消えてしまえばいいのに、と。
何度も泣いた。
涙の粒よりも多い絶望は、今までのどんな闇よりも深かった。