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繰り返します。五話の予定でした…。
ここまででも一応落ち着いているのですが、あともう一話だけお付き合いくださいませ。
次回で完結です。
拍手ありがとうございます。
では下からどうぞ。
ぽろぽろと零れる涙がようやく止まり、ファイが真っ赤になった頬を恥かしそうに布団で隠す。
落ち着かない気分を誤魔化すように黒鋼はファイの頭を撫でた。柔らかな髪が指先に甘えるように纏わりつくのを、なかなか悪くない、と思いながら。
「何か喰いたいもんあるか?」
さすがに起き上がるのも辛そうな様子では炊事など無理だろう。
夕食は何処かの飯屋に頼むとしても、さしあたって何か腹に入れるものは用意しなければ、と黒鋼は考える。
昨夜は慣れない体の使い方もしたのだし、と思うと自分の中でもわずかばかり羞恥が蘇るが。
疲労に加えて今もこれだけ泣いたのだから喉の通りが良い少し水分の多い物を、と考えていた黒鋼の袖をおずおずとファイが引っ張る。
「黒様の作ってくれた、ふわふわの卵煮が食べたい」
出汁で溶いた卵を蒸せば茶碗蒸しだが、そのまま直接鍋で温めると次第に卵だけが固まる。ふんわりと優しい食感の卵煮はファイが日本国に来てからの好物だった。
頭を撫でて応じた黒鋼に、ファイがくすぐったそうな笑顔を向けた。
黒鋼の復帰の最初の日、ファイも一緒に城へ来るようにと使いが来た。
流麗な手蹟の姫巫女直々の文には体を労わるように、会うのが楽しみだと書かれていた。
顔を出さなかったのはたった半月ばかりだが、城の廊下を侍女に先導されるままに歩いていると、もう随分とここに訪れていなかったような気がしてくる。
天照の御前に呼ばれた黒鋼と違い、ファイが通されたのは庭の良く見える一室だった。姫はまだ来ていない。
改まってこのような場所に通されたということは何か用があるのだろうかと首を傾げたが、黒鋼の看病で半月近くも顔を出していない。いずれにせよ、何かとなく気遣いを見せてくれる姫がファイのことも気にかけてこうして呼んでくれるのならば、何がしか理由があるのだろうと思った。
未だに苦手な正座で姫がやってくるのを待つ。足が痺れたらどうしようとちらりと心配する。
挨拶を失敗しても怒るような人柄ではないが、さすがに礼儀としてまずかろうとファイが思う間にさやさやと衣擦れの音が襖の向こうから聞こえた。
「お久しぶりですわ、ファイさん」
朗らかに声をかける知世の顔を見て安堵する。
ふと、その後ろに俯くようにして佇む人がいるのに気がついた。
ファイの表情に気がつき、少しだけ微笑みの表情を変えた知世が後ろの人物をそっと促す。
姫に促されるままにファイの前に立ったのは若い薬師の娘だった。黒鋼に心を寄せて、稚い恋まじないに縋った娘。
「怒っていらっしゃるかもしれませんが、どうか話を聞いてあげてはいただけませんか」
知世の声に慌ててそんな、とファイは頭を振る。確かに黒鋼が倒れた件に関与していたかもしれない。けれどもファイはそれを責めようとは思いもしない。
悪意がないから罪がないわけではない。けれど、娘が望んだことではなかったことも知っている。
震えるように、娘はファイは頭を下げた。
「申し訳ありませんでした…。軽はずみなことをしたと思っております。
許して欲しいなどと言えたことではありませんが…」
そこで薬師の娘は不意に言葉に詰まってしまった。けれど、ファイの目をひたと見据えて、震える唇でごめんなさいと謝った。
「あの、気持ちはもう充分に分かりました。あなただけが悪いのでもないし、黒鋼も怒ってないと思いますよ。
でもそれはオレではなくて黒鋼に…」
いいえ、と娘の首が小さく横に振られる。
薬師でありながら毒をそうとは見抜けず、思慮のないままに重要な戦力である忍にそれを飲ませた。愚かな恋情に目が眩み。
自分の罪をそう言って、彼女はファイにさびしそうな笑い顔を向ける。泣き出しそうな顔に似ていた。
「貴方に、謝りたかったのです…」
「オレに?」
「あの人の一番傍にいて、大事にされていて…。私が望む場所にはいつも貴方がいました。
貴方に代わってあの人の一番近くにいられたら幸せだろうと思いました。…でも」
黒鋼が倒れた時、ひたすらに怯え何の役にも立たなかった。彼が朦朧とする意識と警戒本能のままに荒ぶっていた時には、それがただただ恐ろしく、恋した相手だということすら見失っていた。
手練れの忍や兵ですらうかつに傍に寄れば殺されるかもしれない。そんな危惧など省みずに、黒鋼を助けようと必死だったファイの姿に見たものは、敗北でも失恋でもなく。
その場所がけして自分のものではないという事実だけだった。
淡々と語られる言葉に嘆きの色はなく、ファイは静かに娘を見つめる。
「黒鋼のことが好きだったんですね」
「…はい。だから貴方のことを勝手に羨んで、…貴方の大切な人を傷つけてしまいました」
ごめんなさい、ともう一度詫びる娘の言葉を、今度はファイは受け止めた。
「はい」
しばらくの間、室内には沈黙が降りる。
知世は座ったままじっと二人のやり取りを見ていた。口を挟む気はないようだ。
既に城から何度か寄越された報せで、彼女が城から暇を出されたことも、どこかに預けられることも知っていた。けれどそれをファイが訊ねるのも今更には躊躇われる。
どうしたものかとファイが思案しているうちに、沈黙を破ったのは薬師の娘の方だった。
「ひとつだけ、お聞きしてもいいですか?」
何か、と首を傾げるファイに娘は言葉を飾らなかった。
「貴方は…あの人のことがお好きなのですか?」
あの人、が誰のことを言っているかなど、もう聞くまでもあるまい。
ひたすらにファイの言葉を聞き漏らすまいと、真っ向からファイの目を見据える娘の真摯な眼差しに、ファイはたじろぐことはなかった。
少しの間黙考し、浮かべたのは困ったような笑み。
「好きなのは好きなんですけど…とても好きなんですけれど」
思うような返事が返ってこなかった娘が拍子抜けしたような顔をする。
それに少し眉を下げて、ファイは困ったなあ、と小さく呟いた。
知世も傍にいるときにこんなことを言ってしまってもいいのだろうかと、恥かしかったのだが、いずれは知られてしまうことに違いない。
「恋とか愛とか…彼のことを好きな気持ちを表す言葉がどうしても見つからなくて。この国の言葉も、自分の知ってる国の言葉も考えたんだけれど…。
黒鋼のことを好きな気持ちだけを言い当てる言葉は全然なくて、どうしようかなあって。
大事な人や護りたい人や感謝してる人たちはいっぱいいて、それは全部言えるのに…彼だけを表す言葉は本当に無いんです。
だって黒鋼がいなければオレは多分ここに居ないし。もし出会っても、出会ってから今までの中で、少しでも違う彼だったら…こんな気持ちにはならなかったかもしれない。
…あの人が、今のオレのぜんぶだから、好きだけど好きだけじゃあ足りなくて…。でも、他の言葉でも追いつかなくて」
困ったなあ、ともう一度呟いて俯いたファイに、娘は身を正して頭を下げた。
「ありがとうございました」
それが別れの合図だった。
次に顔を上げた時には凛とした眼差しをファイに向けて娘は微笑んだ。
「滋養をお付けなさいとは言いましたが…いささか精が付きすぎましたか?」
人の顔を見るなりなんだその言い種は。そう怒鳴りつけたい黒鋼だったが、相手は一応自分の主の姉でありこの国の主その人でもある。
ぐっと堪えた黒鋼に天照は全くの手心もなく更に言葉を加える。
「ファイさんに無体な真似はしていないでしょうね」
「…してねえよ」
合意の上での行為は無体はことではない。おそらく。
「その間は何ですか」
すかさず突っ込む天照に余計なことを、と鋭い視線を向ける。
二人とも、と宥める蘇摩を除いて周りに控える忍たちがなんとなく黒鋼から目を逸らしているのは気のせいではない。
「で、わざわざ呼びつけた用は何だ」
不機嫌もあらわに吐き捨てる黒鋼に、天照は悠然ともうすみました、と告げた。
「毒の後遺症もなし、それだけ威勢がよければ今日にも元の任につけるでしょう。後は…」
ちらりと意味ありげに黒鋼を見つめる天照の視線は実に楽しげだった。明らかにからかって遊んでいるのだが、生憎と止めるものはいない。
「色ボケしていなければなお良いのですが…」
「誰が色ボケだっ!!」
さすがに我慢の限界が来た黒鋼の恫喝に微塵も動じることなく、天照はころころと笑った。
ひとしきり笑うと、さすがにどうやってこの場を落ち着けようかと狼狽える蘇摩が不憫なのか、改まって黒鋼を元の任に戻す旨が帝から直接告げられた。
毒の出所などは引き続き蘇摩が率いる忍たちが調べを進める。黒鋼の任務は城の警護や魔物討伐といった戦闘が主立っていた。
不満があるか、と聞いた天照に黒鋼は短く否、と答える。
犯人に対し腹が立たないわけではないが、自分を狙った者が何者であろうと関係はない。いずれ然るべき裁きを司直が行う。ならばそれで良い。
翻弄する嵐を抜け、ようやく静かに凪いだ日々へとたどり着いた。